川越高校創立50周年記念行事の一環として「50周年展覧会」が行われました。
この展覧会は「自由作品展覧会」としてこれ以降毎年行われ、文化祭の前身となっていきます。
川越高校ではこの年から現在の校章が使用され始めました。
くすのき祭とは
くすのき祭は1948年に始まり、今年で78回目を迎える埼玉県立川越高等学校の文化祭です。
「くすのき祭」という名称は、校内にそびえ立つ大きなクスノキに由来しています。
2001年には、本校水泳部が文化祭で披露しているシンクロ演技をモデルにした映画「ウォーターボーイズ」が公開された影響もあり、来場者数は歴代最高の30690人を記録しました。 現在でも毎年10000人以上の方々が足を運んでくださっています。
高さ約10メートルにも及ぶ木造の「門」も見どころの1つです。多くの実行委員の思いが込められた門は壮観で、くすのき祭の顔として、毎年その高い完成度から注目を集めています。
これまでに作られてきた門はこちらから見られます!
自主自立の校風のもと、企画から実行までの"すべてを生徒が主体となって"運営し、 部活やクラスなどから構成される団体は個性豊かなものが並びます。

くすのき祭の歴史
文化部期【第1回(昭和23年)~第18回(昭和40年)】
文化部期
【第1回(昭和23年)~第18回(昭和40年)】
文化部期
【第1回(昭和23年)~
第18回(昭和40年)】
美術、書道、山岳、物理、図書の5つの部活動による合同展示発表会で初めて「文化祭」の名称が用いられました。
この合同展示発表会は、東京大学の文化祭「五月祭」の影響を受けたものでした。
定時制からの申し込みにより、50周年記念時と図書館設置時に続く3回目の全定合同文化祭となりました。
これ以降全日制と定時制による合同開催の形式は、定時制廃止の第63回まで続くことになります。
クラブ対抗のど自慢(台風のため未実施)など、運動部参加のための新たな試みがなされました。
これは正式な参加とは異なり、あくまで余興的立ち位置のものでした。
娯楽化期【第19回(昭和41年)~第31回(昭和53年)】
娯楽化期
【第19回(昭和41年)~第31回(昭和53年)】
娯楽化期
【第19回(昭和41年)~
第31回(昭和53年)】
文化部のみで行われていた文化祭に学校祭要素を加える方針に転換しました。
これにより運動部を含めた全ての部活動の参加が認められました。
いままで「川高祭」だった文化祭の名称が「くすのき祭」に変更されました。
しかし、しばらくの間は「くすのき祭」と「くすの木祭」の二つの名称が混在することになります。
文化部の展示発表がマンネリ化した当時の状況を打破するための措置として、3年生のクラス参加と他校招待が認められました。
これはその後の文化祭の娯楽化の流れを決定づけるものとなり、縁日や男女の交流の場という祭りの要素が濃くなっていくことになります。
第17回から第2会場として川越市民会館をお借りしていましたが、この年から川越高校だけを会場として開催するようになりました。
くすのき祭30周年を記念して、映画の上映や野坂昭如氏を招いての講演会などが行われました。
前年の予算の倍である40万円が投入され、盛大なものとなりました。
また、この年からテーマの募集が始まったと思われます。
来場者が確認できる上では初めて1万人を超え、早くも大文化祭への道を歩み始めます。
全国規模期【第32回(昭和54年)~第72回(令和元年)】
全国規模期
【第32回(昭和54年)~第72回(令和元年)】
全国規模期
【第32回(昭和54年)~
第72回(令和元年)】
門班が設置されました。
記念すべき初代門班は、各班でじゃんけんに負けた16人で構成されました。
以前から入場門の制作はされていましたが、門班の設置により門の巨大化が進むことになります。
1,2年生クラスの参加が認められました。
問題視されていた娯楽化について、「これほど盛大で華やかな文化祭は他校に類はない」「県内屈指の長い歴史と伝統を誇る我が校のくすの木祭」と評されるようになってきました。
くすのき祭規約が施行され、名称が完全に「くすのき祭」で統一されました。
また、以前実行委員が胸に着用していたリボンが法被に変更されました。
全国的に有名な水泳部のシンクロナイズドスイミングが始まりました。
このときは非公式参加で、ゲリラ的にプールで演技を行いました。
翌年に公式参加したものの、食品販売などに力を入れていたため、まだ演技披露という名目での参加ではありませんでした。
テーマが廃止され、スローガンの募集が始まりました。
「水の踊り子」として水泳部によるシンクロ公演が初めて現在の形で行われました。
NHKの番組で松山高校との対決という形でテレビに取り上げられました。
この頃からくすのき祭のメディアへの露出が増えていきました。
くすのき祭50周年企画として、くすのき祭当日の募金が始まりました。
また、参団での食品調理が可能となりました。
川越駅~川越高校間の直通バスが初めて運行されました。
この年川越高校は100周年を迎えました。
法被の文字が委員長は金、副委員長は銀となりました。
規模が更に大きくなっていき、当日には英国BBCのカメラが入るほどでした。
また、この年の9月15日に水泳部によるシンクロ公演がモデルとなった映画「ウォーターボーイズ」が公開されました。
前年に公開された映画「ウォーターボーイズ」が、くすのき祭の開催に合わせて8月31日に初めて地上波で放送されたこともあり、来場者数30690人という全国的に例を見ない大記録を打ち立てました。
くすのき祭のロゴマークが正式に使用され始めました。
このロゴは第55回で募集されたものです。
中断期【第73回(令和2年)~第74回(令和3年)】
中断期
【第73回(令和2年)~第74回(令和3年)】
中断期
【第73回(令和2年)~
第74回(令和3年)】
新型コロナウイルスの流行に伴い、7月10日に行われた生徒総会にて公開の中止が決まりました。
埼玉県教育委員会から文化祭の一般公開中止の通達があったことから、実行委員会と生徒会が共同で校内署名活動を実施しました。
結局これが覆ることはなく、一般公開は中止され、YouTube や cluster を用いての公開が行われました。
再興期【第75回(令和3年)~現在】
再興期
【第75回(令和3年)~現在】
再興期
【第75回(令和3年)~
第78回(令和7)】
4月27日に県から文化祭の一般公開を禁じる旨のガイドラインが発表されましたが、春日部高校を中心とした署名活動の結果、ガイドラインが変更され、3年ぶりの一般公開が行われました。
入場者数に制限をかけた形とはなりましたが1万人弱の方が来場されました。
また、フジテレビの「めざましテレビ」にて二週間にわたる特集が組まれました。
入場者数に制限をかけずに公開を行い、新型コロナウイルスの流行前と同じ水準である約1万5千人の方が来場されました。
私たち川越高校の生徒の作り得る文化祭とは、いったいどんなものであろうか。また、私たちは、現在めざましく変遷してゆく俗世間の文化にのまれてはいないか。
“私たちはここに宣言する!”
私たちの文化は決してそのような場所に甘んじ、留まりはしない。より高度に未来へ向けて前進するのみである。私たちは、私たち各人の備えある創造的文化の発表・交歓の場所として、ここにくすのき祭の存在を確認する。そして、鋭い洞察力と、前進・進歩的行動によって、くすのき祭の成功を目指す・・・・・・と。
くすのき祭規約(昭和59年6月4日施行)前文より